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紀ままな独り言44

紀ままな独り言44

君原健二さんが、ボストンマラソン完走。  

  •  子供の頃、あこがれの選手だった君原健二さんが、ボストンマラソンを完走したというニュースが届いた。ボストンマラソンは、アメリカ独立戦争が開戦した日を記念し、「愛国者の日」に開かれる近代五輪に次いで歴史の古いスポーツ大会の一つとされている。
  •  君原さんは50年前、1966年のボストンマラソンの優勝者として、招待されて完走した。75歳である。君原さんのすごいところは、マラソン大会での途中棄権がないことでも有名である。また、東京五輪に続いて、メキシコ、ミュンヘンと3大会連続で出場している。
  •  君原さんは、メキシコ五輪で銀メダルを獲得、最後のゴールシーンは印象的だった。「まるで夢遊病者のようなホーム。あと10メートルです」と実況がアナウンスする中、見事に標高2240m、酸素の量がが通常の3/4という厳しい状況の中、粘って多くの選手が脱落していく中、銀メダルを獲得したのである。東京五輪の時、円谷選手がゴール前でヒートリー選手にかわされた経験をいかし、マイケル・ライアンを14秒差で振り切っている。
  •  謙虚なのは、「マラソンの青春」の中で、事前に5回メキシコを訪れる経験をあげ、「スポーツにおいての平等の原則から見て、メキシコの高所障害を経験しなかったものに勝っても勝ちは乏しい」と記している点が、いかにも君原さんらしい。
  •  1960年のローマ大会を裸足で駆け抜け、4年後の東京でも2位以下を4分以上離したエチオピアのアベベも参加していた。エピソードとして、君原さんは、東京五輪で銅メダルを獲得した円谷幸吉さんの意志を受け継いだと話している。
  •  子供の頃、短距離はあまり早くなかったが、長距離はそれなりに走れた。それも君原選手へのあこがれがあったように思う。
  •  君原さんの言葉に、走るのがつらくなったときに「あの街角まで、あの電柱までがんばろう」というのがあり、目標を身近なところにおいて達成していく姿勢が心に残っている。「努力の成果なんて目には見えない。しかし、紙一重の薄さも重なれば本の厚さになる。」という言葉は、いかにも重い。
  •  ちなみにボストンマラソンは瀬古利彦さんが二度優勝したほか、1951から隔年に、田中茂樹さん、山田敬蔵さん、濱村秀雄さんが優勝。東京五輪の翌年には重松森雄さん、その翌年が君原さんと続いている。1969年には、メキシコ五輪代表を君原さんと競った采谷義秋さんが優勝している。
  •  日本人初のボストンマラソン優勝者・田中茂樹さんは、広島県の山間部出身(現・庄原市)ということもあり、「アトムボーイ」として注目される中、「原爆で負けたとはいわれたくない」と奮起し、見事優勝。世界中をピックニュースが駆けめぐったという。多くの日本人を勇気づけたというエピソードが残っている。ご本人は連日の歓迎会は地獄だったと話している。なお、戦前のベルリン五輪で優勝した朝鮮半島出身の孫基禎さんは記録しては、日本人として扱われているらしい。
  •  最後に君原さんが37歳の時、「すててはいけない君の人生」というコマーシャルの中で、「最後まで走り続けなければ、ゴールは見えない」という言葉が懐かしい。








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