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紀ままな独り言59

紀ままな独り言59

 あれから六年経ちましたが?  

私にとっての東北の震災は、地震の翌日の津波の実体験です。  

  •  遡上が今でも記憶に残る出来事です。
  •  震災の当日は、紀伊半島の山中を走向していたため、発生直後の一時間は、何も知らないで、龍神街道にいた。
  •  大変なことになっていると教えられたのは、息子からの電話であった。その後、日高川町の役場、建設課でテレビに釘付けになっている建設課長さんテレビから伝わってくる映像にただ、驚かされるばかりだった。
  •  翌日は土曜日で、梅の消毒が待ちかまえていた。ただ、国道42号が上富田町で規制され、そこから山を越えて日置川に入った。その後、日置川沿いの土堤を走っていると、何度も町の防災無線がなり、日置川をさかのぼる津波を見たときに、そのエネルギーの大きさに驚かされたのを思い出す。東北の三陸沖の地震が、遠く離れた紀州の、しかも潮岬を回った日置川にまで、影響があるのかということだった。
  •  紀伊半島にも津波警報が出ているため、国道42号に規制がかけられていたのであり、地震発生の翌日でも、その津波の影響が遠く離れた和歌山でも見ることができたのである。

この当時、私は防草シートの営業をしていた。  

  •  宮城にも同じように営業をしている先輩がおられた。ご自宅も被害に遭われたということを後に聞いた。やがて和歌山でも南海トラフを震源とする南海地震が警戒されている。
  •  50を越えたばかりの自分に、これから何ができるのだろうかと考えたときに、雑草と戦うよりも、目に見えぬこの自然の脅威から、少しでも役立つことはないのかと、自問自答が始まったと、格好良くいえばきっかけになった出来事だった。
  •  そして、その年の九月には紀伊半島は大変な水害にあった。この二つの出来事が、私の背中を押した。
  •  タイミングが良かったのか、悪かったのか、知人から建設コンサルタントをやらないかという話がその直後にあった。これも何かの縁と思って、再び、建設コンサルタントの世界に舞い戻ってしまった。
  •  そこからは新たな茨の道が待っていたが、黄昏れて沈む夕日が、最後にもう一度輝くことが、できればという、ええカッコしの発想がよぎる。

この間、私は何をしたのだろうか。ブレていないのだろうか?  

  •  赤いちゃんちゃんこが目前に迫り、五木寛之さんのいう林住期に何をさまよっているのかという思いもある。
  •  中学生の頃から親しみのある作家が、教えてくれる50歳からの生き方、不思議なことに、私の人生はそのような方向に向かっている気がする。その第一が独りになることだという。
  •  私は林住期に入る前の準備が怠っていたので、あと少し生々しい生き方をしなくてはいけない。それでも残りの人生を興味あることに費やそうという考えに共感できる。
  •  偉そうにいうことでもないが、自然災害に対して、こんな自分に何かしらできることがないか、もう一度見つめ直す良い機会なのである。
  •  東北の震災は対岸の火事のような感じであったが、対岸からの波紋は、3月12日に、私は見てしまった。白浜町の防災無線の警報とともに、早春の日置川の河口をさかのぼる津波を。
  •  次の南海トラフの活動まで、私は生きていないかもしれない。50代も後半になると、自分の死というものを少しではあるが、意識し始めた。死への恐怖はあるが、以前よりも近づいているせいか、冷静に考えられるようになってきた。親父の亡くなった年までは、あと30年を切った。自分が今まで生きてきた人生の半分ほどの年月になっている。
  • 今まで生きてきたで、私が経験した一番大きな揺れは、神戸の震災の震度4だった。そして津波を実際に見たのは六年前が始めてであった。今一度、何をしたらよいのか、考えるウイークエンドである。

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